わが逃走[188]困ったひとの巻
── 齋藤 浩 ──

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S氏は、とある真っ当な雑誌の編集者だったのだが、酒の飲み過ぎが仇となって退社しフリーとなった。震災前のことだったと思う。

会社ではなく酒をやめればよかったのだが、同じマンションに何人かフリーランスの人がいて、みんなそれなりに生活できていたので、「じゃあ、オレも」と後先考えずに辞表を出したのではなかろうか。おそらくそうだ。そうに違いない。

少し考えればわかることだが、フリーでやってる人は皆、少なくとも「食っていけてる」わけで、「食っていけなかった」人は、フリーとして存在していない。




つまり、視界に入るフリーの人は、一見いい加減に見えたとしても、少なくとも生活ができている。

なので、「あの人がやっていけてるんだからオレだってなんとかなる」という考えは成立しない。命取りになる。

私を含む同じ集合住宅に住む何人かは、S氏から「チームへなちょこ」として認識されており、そう思わせてしまった我々はそれなりの責任を感じていた。

S氏はフリーとなった後も酒の飲み過ぎが仇となり、いろいろやらかしてしまったらしい。

昨年は救急車で運ばれ緊急入院。

アル中病棟を退院したときは別人のように生き生きとしており、ああ、もう大丈夫かと安心したが、結局その日からまた飲み始めてしまった。

そしてついにこの5月、彼は長年暮らしたこの集合住宅から去っていったのだった。

今日、訃報が届いた。いずれこうなるとは思っていたけど、早すぎたなあ。

アル中以前のS氏はユーモアのある知的なおっさんで、(適量の)酒を飲みながら、デザインや建築についてのウンチクを楽しく、わかりやすく語ってくれたものだ。

私のグラフィック作品についても客観的に批評してくれた。気のいい先輩であり、兄貴だった。

いつだったか、彼が暮らす囲炉裏のある部屋に遊びにいったとき、オリーブオイルを敷いたフライパンの上で餅を薄く焼いて、その上にたっぷりと大根おろしを乗せて食べるとイイぞと、その場で作ってくれたのだが、それがすこぶる旨かったことを思い出した。

この料理の主役は大根おろしであり、大根おろしをいかに旨く食べるかの究極の答えがこれだという。なるほど、納得の味である。最近ご無沙汰だったけど、久々に作ってみようかな。

レンジファインダーカメラの面白さを知るきっかけをくれたのも彼だ。

10年ほど前、「もう使わないから」というS氏からフォクトレンダーBESSA-Tと2本のレンズを1万円で譲り受けたのだ。

見た目の格好良さと、周囲がみんなデジタルになってしまった反動から、このカメラで街角スナップを始めたわけだが、現像されたネガフィルムを見て腰を抜かすほど驚いた。

とにかく美しい。適度なコントラストがありつつ黒がツブレない、白がトバない。広角レンズでも歪まない。

ただしフルマニュアルカメラだから、油断するとピンぼけもするし、露出も間違える。

でもこれって、なまっていた勘が蘇る楽しさ、上達する喜びが味わえる最高の道具ではないか!!

以来、レンジファインダーカメラは私にとってなくてはならない人生の友となったのだ。

ときどき紹介する写真作品『趣味の構造美』シリーズも、実はここからスターとしたと言っても過言ではない。

そういった意味からも彼には本当に感謝している。

で、この一件から何を言いたいかといえば、S氏のご冥福をお祈りするとともに、会社を辞めるときは極力慎重に。とくに性格的向き・不向きは絶対にあると思います。

客観的に自分のダメなところを判断し、リスク回避のため具体的にどうすべきか熟考し、検証を重ねること!!!!!


【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
http://tongpoographics.jp/


1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。