[4203] はぐれだからできる中継ぎ

投稿:  著者:  読了時間:24分(本文:約11,900文字)



《「初ラ」と「ラ製」と「写経」と》

■羽化の作法[24]
 段ボール村のイザコザ
 武 盾一郎

■crossroads[30]
 我が青春のMZ-2000(プログラミング編)
 若林健一

■はぐれDEATH[12]
 はぐれだからできる中継ぎ-1
 藤原ヨウコウ





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■羽化の作法[24]
段ボール村のイザコザ

武 盾一郎
http://blog.dgcr.com/mt/dgcr/archives/20161004140300.html
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「戦争で絵の好きだった友人を亡くした」と言って、僕らに好意を寄せてくれていたホームレスのお爺さんがいた。「まっちゃん」と呼ばれていた。

細身で背が高く、手足が長くて顔が小さくて「昔の人」って感じがしない体型で、毛糸の帽子を被って服もなんだかいつもオシャレだった。

よく、「よーっ!」っと絵を描いてる僕らに、手を上げて声をかけてくれた。僕らにとって「まっちゃん」は優しい癒し系の人だった。

野宿してる人達のほとんどは、こんな風にして僕らに話し掛けてくれるわけではなく、通常は割とひっそりとしてたが、上記の「まっちゃん」のように際立つ人も結構いる。

段ボールハウスの一軒目、たまたま訪ねた通称「親分」もまたとても個性的な人だった。
参照:羽化の作法 01
http://blog.dgcr.com/mt/dgcr/archives/20150911140200.html
http://take-junichiro.blogspot.jp/2015/09/012530.html

強制撤去前までは、そういった目立つ人たちが、新宿の地下エリアに広がって
暮らしていた。強制撤去後は野宿可能な場所が西口地下広場(通称インフォメ前)に絞られてしまい、人々が密集して「ダンボール村」になったのだが、そういった様々な人たちが一か所に集められてきたのだ。

空間は濃くなり、蠢くような期待感もあったのだが、同時にイザコザを目撃することも一気に増えた。

通称「まっちゃん」が段ボール村に引っ越してきた日、僕らは「まっちゃん」の新居のそばで、段ボールハウス絵画を描いていた。

「まっちゃん」家の前で「親分」と言い争いが始まった。それまでの経緯が全く分からない自分には、「親分」が「まっちゃん」に言いがかりを付けているように見えた。

「うぉりゃー、ジジイ、テメーっ!」と親分の凄む声が聴こえる。

「まっちゃん」もまったくひるむことなく、威嚇態勢をとっていた。笑顔の「まっちゃん」しか知らない自分はそのことに少しショックを覚えた。

すると、「親分」の子分のような通称「しんちゃん」がやってきた。「親分」は「男はつらいよ」の寅さんに似ていて物凄くガタイがいい。「しんちゃん」はもうちょっと小柄で、泉谷しげるのようにちょっと禿ていて、髭を生やしていた。

「親分」「しんちゃん」VS「まっちゃん」のにらみ合いになっていた。「しんちゃん」は懐からナイフを取り出し「まっちゃん」にちらつかせていた。

と、ここまでの記憶はあるのだが、その後どうなったかは覚えてない。暴力沙汰に発展しなかったからだろう。どうやって両者が折り合いを付けたのかまったくわからないが、このようなイザコザによく出くわすことになるのだ。

ひょっとしたら、ここはいつかイザコザで人が死ぬかもしれない、それは自分たちかもれない。

強制撤去までは通行人に対して主に恐怖心をいだいていたけど、「段ボール村」になってからは村に対しても恐さを覚えるようになった。

ちょうどその時期に描いていた絵の画像がありました。

https://www.facebook.com/junichiro.take/photos/a.1053736031337950.1073741847.206228169422078/1299681903410027/?type=3&theater

https://www.facebook.com/junichiro.take/photos/a.1053736031337950.1073741847.206228169422078/1299681930076691/?type=3&theater

裸婦と火を吹いてる怪物みたいなのを描いている。

イザコザが起こるのは嫌いだ。なぜか? 単純に怖がりだからというのもあるが、自分にその解決能力がないからである。見て見ぬふりをしたくない自分の良心が粉砕されるからである。

自分はトラブルを感じながら、横でずっと絵を描いていただけである。

一軒目に描かせてくれた「親分」と、笑顔で話し掛けてくれる「まっちゃん」。どちらも良い人でいて欲しい。そうすれば僕は傷付かない。

イザコザが嫌いなのは、自分が平和主義者で高尚な思想を持ってるからではなくて、自分が傷付きたくないからだ。

しかし現実とは、そうは問屋は卸してくれない。

うまく言葉にできない憤りが体中を駆け巡る。ねじれるような感情を抱いて筆を動かすだけだった。(つづく)


【武盾一郎(たけじゅんいちろう)/人生三度目のぎっくり腰】

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take.junichiro@gmail.com


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■crossroads[30]
我が青春のMZ-2000(プログラミング編)

若林健一
http://blog.dgcr.com/mt/dgcr/archives/20161004140200.html
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こんにちは、若林です。前回に引き続き、私自身のパソコン初めて物語、プログラミング編です。

●きっかけは無線・電子工作雑誌

実はパソコンに関心を持つ前、アマチュア無線に憧れた時期がありました。子供でも免許が取れて、世界中と交信できる(英語はできないのに)というところに心を惹かれ、「初歩のラジオ」や「ラジオの製作」などの無線・電子工作関係雑誌を読み漁っていました。

当時は「初歩のラジオ」を「初ラ(しょら)」「ラジオの製作」を「ラ製(らせい)」と呼び、それぞれの派閥ができるほどで、自宅近くの小さな書店にも置いていましたから、それなりに人気のあった本だったと思います。

これらの無線・電子工作関係雑誌でも、パソコンが取り上げられるようになったことが、パソコンと出会うきっかけでした。

とはいえ中学生のこと、「プログラミングを勉強しよう」といった高尚なことは考えておらず、「パソコンがあればゲームができる!」ぐらいの動機付けでしかなかったのですが。

NEC、シャープ、富士通など、パソコンを発売するメーカーが増えるにつれて、パソコンに割かれる誌面が多くなり、ついには「ラ製」の別冊として「マイコンBASICマガジン」という、BASICによるプログラミング専門の冊子がつくようになりました。

私は「初ラ派」だったのですが、「マイコンBASICマガジン」の登場により「ラ製」に浮気するようになり、お小遣いの少ない中学生には二つの月刊誌を毎月買うのは厳しいこともあって、「ラ製」一本に。

そして「マイコンBASICマガジン」が別冊から独立し、月刊誌になった時には「マイコンBASICマガジン」だけになっていきました。

●写経の日々

「マイコンBASICマガジン」には、読者の投稿プログラムが多数掲載されていました。

パソコンを持っていてもソフトがなければただの箱。でも、高いパッケージソフトはなかなか買えない。今のように無料のアプリがダウンロードできる時代ではありませんでしたから、「本に載っているプログラムを打ち込む」というのがソフトを安く手にいれる唯一の方法でした。

当時のパソコンは、メーカーや機種によってBASICの仕様が異なっていたので「マイコンBASICマガジン」には、対応機種によって分類して掲載されていました。

最初はプログラミングに関する知識がまったくありませんから、自分の機種用のプログラムをただひたすら打ち込むしかありません。見たままを打ち込んでいく、いわゆる「写経」と呼ばれるやり方です。

本に載っているものを見たままを打ち込みますが、当然打ち間違いがあります。打ち間違えば動かないので、どこを間違ったのか見直さなければなりません。

しかし、そもそもBASICをわかっていないので、どこが間違っているをすぐに見つけられないことも多く、ひたすら見比べてのバグ取りとなります。

写経→見比べ→写経→見比べを繰り返すうちに、少しつづBASICが分かるようになり、プログラムが動かない原因の見当がつくようになり、単純な「見比べ」作業は減っていきす。

ここまでくると、少しずつですがオリジナルのプログラムも作れるようになり、自分で作ったプログラムをきっかけに新しいことに出会い、それについて調べて、また更に理解が深まります。

もちろん、Google検索がない時代ですから、調べるのもすべて紙の本です。今でもプログラミング初学者が「写経」することはありますが、当時は「写経」しかなかった時代だったのです。

●移植への挑戦

BASICでプログラムが作れるようになってくると、「他の機種用のプログラムを自分の機種で動かしたい」という欲求が現れて来ます。別の機種用のプログラムを作り変えることを「移植」と言います。

「移植」するには、自分の機種の知識だけではなく、移植元機種の知識も必要になりますし、それをどのように置き換えるか? を考えるという高度な取り組みになります。たとえ、その目的が「ゲームをしたい」であったとしても。

当時の人気機種は、NECのPC-8001や8801でしたので「マイコンBASICマガジン」に掲載されているプログラムも、PC-8001や8801用のものが多く、私はそれらをどうしてもMZ-2000で動かしたかったのです。

「移植」には、単に記述方法の違いを置き換えるだけで済む簡単なものと、移植先のBASICにない機能をどのようにしてカバーするかを考える複雑なものの二種類があります。

前者は、それぞれの機種のBASIC言語仕様がわかれば大して難しくはありませんが、後者はなかなか難しい。命令不足は自力でどうすることもできず、より高機能なMZ-2000用の他社製BASICを購入して対応したこともありました。

起動時にBASICを読み込む仕様だった、MZ-2000だったからできた技とも言えますが、そもそも純正のBASICの機能不足が原因とも言えるので、そこは褒めたものかどうか迷います。

移植ができるようになれば、BASICに関してはほぼ一人前と言えると思います。

●森巧尚さんのこと

「マイコンBASICマガジン」に関連して、もうひとつ面白いエピソードがあります。

当時「マイコンBASICマガジン」に多数の作品を投稿していた中に、森巧尚(もりよしなお)さんという方がいらっしゃったのですが、今はそのご本人と一緒にCoderDojoの活動をさせていただいています。

自分が一生懸命打ち込んでいたプログラムの作者の方と一緒に、子供達にプログラミングを教える活動をしているというのは、なんとも感慨深いものです。

しかも、大阪のCoderDojoでは、森さんにBASICをサポートしてもらっている子供もいて、自分も森さんのプログラムを写経して、移植して、プログラムを覚えたのかと思うと、なんとも不思議な感覚です。

●動機付けが大切

当時はただひたすら「ゲームがしたい」という一心でやってきたことでしたが、何事も動機付けされるものがあるということは大切です。

この時の経験が、後の職業プログラマーとしての基礎になったわけで、子供たちにプログラミングを教えるところにもつながっているのですから。

今の子供たちは私たちの頃よりもずっと恵まれた環境にありますが、私たちは不便な時代だったからこそ頑張れたとも言えます。今は、自分で打ち込まなくても、面白いアプリがダウンロードで手に入りますからね。

しかし、作ることの面白さはダウンロードアプリでは味わえない世界ですから、ここをしっかり伝えていきたいと思っています。


【若林健一 / kwaka1208】
http://kwaka1208.net/aboutme/

CoderDojo奈良・生駒の開催予定
http://coderdojo-nara-ikoma.github.io/
奈良:10月16日(日)午後


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■はぐれDEATH[12]
はぐれだからできる中継ぎ-1

藤原ヨウコウ
http://blog.dgcr.com/mt/dgcr/archives/20161004140100.html
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8月末日に51歳になった。正直、ここまで生きられるとは思っていなかった。

去年の吐血事件の時が一番ヤバかったのかもしれない。吐血して一時意識を失い、そのままだと失血死+孤独死という、なかなかに悲惨な死に方が出来たのだが、気がついて自力で救急車を呼んだのは、我ながら強運の持ち主だとも言えよう。

救急隊員の人達が来たとき、また気絶していたので尚更だ。とっさに玄関の鍵を開け、スマホと健康保険証を握りながら気絶していたのだから、我ながらエライと思う(笑)しぶといとも言う。

とにかく50歳というのはボクにとっての寿命であり、その後のコトなどなぁ〜にも考えていなかったので多少の戸惑いはあった。それもついこの間までだ。基本、挿絵画家として生涯を全うできればそれで良し、と思っているのだ。

だから「20世紀最後の挿絵画家」を自称しているし、それなりの努力もしている。結果はどうでもエエねん。とにかく挿絵画家として、自分が考えつくことすべてやれることをやったのかどうかだけがが問題なのだ。

たとえ死の淵で、「ああ、あれやってなかったけど、まぁしゃーなしだ」と思って事切れるのがボクの野望である。それでも最終目標はクローザーだったことは素直に白状しておく。

とは言え生き延びてしまったのだ。予定は未定であるのに、勝手に予定を決定事項として認識していたので、当然のコトながら未定の場合を想定していなかったボクは戸惑うことになる。

もっとも、戸惑い始めて一年間は、米軍の戦闘機の爆音のせいでそれどころの騒ぎではなかったのだが、伏見に来て、ふとこの命題がボクの頭をよぎるようになった。

挿絵画家という立場そのものは、徹頭徹尾ボク個人に由来するので何歳になっても別に構わないのだが、あからさまに周囲を巻き込むコトがあるのに気がついたのは、祇園祭の大工さんのお手伝いに行った時だ。

前の作文のどこかでふれたと思うが、いま鉾立の現場では後継者不足が深刻化している。特にボクがお手伝いしている船鉾では顕著である。幸い若い大工さんが(と言っても40過ぎだが)入ってくれたので、屋根組とか艫周りのヤヤこしいところは、ボクが中継ぎで入ればまず間違いなく彼が伝統を引き継いでくれるだろう。

実際、今年は屋根組のエキスパートである本職の大工さんがいなかったので、二人でああやこうや言いながら、なんとか無事に屋根組を終えることが出来た。ボク一人では無理だったと思うし、彼一人でもまた無理だったろう。

三〜四年前から、ボクは屋根組のお手伝いを本格的に始めていたので、大パニックにはならなかった。もちろん大工さんの引退後を睨んでのことである。あと十年も屋根に乗ってれば、まぁまず間違いなく若い大工さんが一人で出来るようになってるだろう。

伝統なんてのはこんなもんである。先輩に学び、自ら考え体験し、自分の身体に叩き込んで後進の指導にあたり、引退する。当たり前と言えば当たり前のことなのだが、世の中この当たり前が通用しなくなっているのが現状だ。

で、もう一つ重要な役目があるのだ。印刷と表現に関わる橋渡し役として、ボクは京都に戻ってきた。

●若き日々の暴走

元々、大学院では江戸後期の浮世絵版画から明治末期に至る印刷技術の変遷と原稿を作る浮世絵師、挿絵画家達の研究をしていた。

ひょんなコトで印刷会社に入社したのだが、ここで製版や刷版の現場や当時最高峰のオフセット印刷、グラビア、シルク、活版等々、果ては人力トムソン抜きという荒業・成果品の数々を目の当たりにすることになる。

ボクが入社した当時(28年前)は、思いっきりアナログな時代だったので、今となればかなり貴重な経験や勉強をさせてもらったことになる。が、デジタル化の波は目の前に押し寄せていた。

下っ端、大学院出、本部長直轄の部署にいたボクに白羽の矢が立ったのは、ビックリすることでも何でもない。ただ教えてくれる人が誰もいなかっただけの話だ。Macとキヤノン製カラーレーザープリンターを押しつけられて、「これでどないかせい」と言われて、手探りで始めたのは言うまでもなかろう。

当時(実は今もだけど)、ボクが一番信用しなかったのはデータである。データと反射原稿は丸っきり性格が異なる。反射原稿の場合どうしても「解釈」というワンステップが入る。特にフィルム原稿の場合は難しい。元があるだけに、印刷されたものと比較するからである。

これはクライアントもカメラマンも同様で、「色が出てない」と言われればそれでアウトなのだ。こういう環境で「データ通り」ではこっちとしては困る。製版にどんな事情があるかはさておき、狙い通りに再現してもらわないとアート・ディレクターとしてはめちゃめちゃ困るのだ。

この件に関して製版の現場、果ては工場長まで引きずり出して散々話し合った。もちろん一触即発という剣呑な場面も多々あった(というか、そんなんばっかりだったかもしれん)。

特にデジタルデータを管理させられていた現場のお兄ちゃんとは、めちゃめちゃ衝突をした。ボクに言わせれば「アナログでは出来ますが、デジタルでは出来ません」などと言うことはあってはならない。

こっちは一方で、クライアントを相手にしているのだ。出来ないじゃ済まされない。

だから「アナログで出来るなら、デジタルでも出来る」を最低ラインとして死守することがボクの役目になった。クライアントにすれば、印刷の仕方がどう変わろうが知ったこっちゃないのである。営業さんに「いやデジタルですので」と言わせるわけにもいかない。

会社全体の沽券に関わる大問題で、これをクリアしない限り実戦稼働など到底無理な話だ。会社がでかかっただけに、余計その手の問題はでかくなる。とにかくどういう経緯で今の製版、刷版のようになったかは知らないし、細かいやりとりなど憶えてるはずもない。

憶えているのは下っ端のボク相手に、工場長をはじめとする現場の先達の皆様が耳を傾けてくれ、職人さん達も現場の若い衆のケツを引っぱたいてくれたことだ。こういう現場にいられたボクは果報者と言ってもよかろう。

だが、ボクはこの研究というか計画を始めて、約二年で会社を辞めている。会社にいたのは三年だけだったから、会社員時代の成果はほとんどデジタル化の研究に注がれたと言ってもいい。では、なぜ三年足らずで辞める羽目になったのか。

これまた、この研究のせいなのだが、ボクがうっかり失言をして、ボクがいた部署の幹部全員を敵にまわしたからだ。ややこしすぎるから、詳細は省く。おかげでボクは四国の支社に飛ばされそうになったので、さっさと逃げ出した。

この時、本部長から「君の給料をどう回収したらエエんや!」と雷を落とされた。本部長の言う通りなのだが(数少ない理解者だった)まだこっちも若い上に無鉄砲である。聞く耳を持たずにとっとと逃げ出したワケだ。

後から聞いた話だが、「フジワラがいないでどうやってDTPを回すんや」と工場長が怒鳴り込みにきたらしい。おかげで会社からカムバック・コールが来る羽目になったのだが「他部署の長に言われてあっさり手のひらを返すのはどうよ」と不遜にも思い込んでいたので、そのままフリーの道へと走ることになる。

ボクが挿絵画家としてどうにかやっていこうと決心したのは、退社して約一年後のことだ。

色々なことがボクを、挿絵画家の道を目指す上で後押ししてくれた。まず、文章を読んでイメージが出来るかどうかという部分は、余裕でクリアできていた。これは物心ついたときからそうだった。

読む速度も異常に(本人的には普通なのだが)早かった。アナログオフセットの原稿の入れ方は百も承知していたので、ツールがコンピュータだろうが手描きだろうが、特に苦労はしなかった。デジタル時代に突入しても、これといって戸惑うことはなかった。

会社員時代に現場で起きていたトラブルが、退社してから多発しただけの話で、ボクはそのトラブルを回避する知識を持っていただけだ。

だから入稿時にボクの原稿で、何かが起きるということは皆無だった。江戸末期の浮世絵版画から近代印刷技術への移行の歴史が、20世紀末に繰り返されたようなもんである。まぁ勉強はしておくもんだ。

あとはボク自身の表現技術を昨日より今日、今日より明日、という具合に上げていけばいいだけの話だ。簡単に言えば上手になるということである。我ながら実に分かりやすい。

転機はある日突然やってきた。転機なんてのはそんなもんなのだが、会社員時代から、フリーになってからも、お世話になりっぱなしだったM氏に声を掛けられてからだ。これが後の「呱呱プロジェクト」になり、ボクが京都に戻らなければいけなかった第二の理由である。

最初から三年という期限付きで関東に行っていたので、京都に帰るのは当然の帰結なのだ。前にも述べたが、これが第一の理由である。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com/
http://blog.livedoor.jp/yowkow_yoshimi/

装画・挿絵で口に糊するエカキ。お仕事常時募集中。というか、くれっ!


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編集後記(10/04)

●「カリフォルニア・ダウン」を見た(2015、アメリカ)。原題の“San Andreas”はカリフォルニア州ほぼ全域を南北に縦走する断層である。大地震と大津波の映像が半端ではないディザスター・ムービー、パニック映画で、とくに大津波は東日本大震災の映像を丹念に研究したものだといい、いままで見た中で最大級の規模とリアリティを持っていたと思う。日本での公開を延期したのも無理はない。最初の方のフーバーダムの大崩壊もすごかった。ダムの崩壊は(不謹慎だが)本当に絵になる。都市部の崩壊のビジュアルもすさまじい。作り物映像であることは分かっていても、ここまでリアルだと怖すぎる。

パニック映画だから、人々が逃げるシーンや、災害時お約束の略奪シーンなどがあるが、分量的には少ない。この物語は、地震予知ができることを証明したローレンス教授のラボ、レスキューヘリのパイロットであるレイ&離婚協議中の妻エマの行動、娘のブレイクの行動の3パートが同時進行するのだが、人数が少ないから、配役がすぐわからなくなるわたしでも、ちゃんと理解できてついていけた。教授ラボ・パートも背景にして、ほとんどがレイ、エマ、ブレイクの親子3人の話になるんだから、パニック映画というより、アメリカ人が大好きな家族愛映画である。大災害の中の、ある一家族のハッピーエンドである。

しかし、そりゃないだろうと誰もが思うのが、レスキューヘリのリーダー兼パイロットが、妻からの助けて〜電話を受けるや、ネバダ州の被災地に行くのをやめて、彼女のいる場所に向かうという任務放棄。いちおう署に連絡を入れて「了解した。助けにいけ。幸運を祈る」と了解を得る。って、どんな組織なんだよ。「今日は休暇ってことで」とかなんとか、とんでもねーレスキュー隊である。ネバダに救援に行くって設定だったのに、なぜ一人なんだ。こんなご都合主義、さすがアメリカ映画の真骨頂。大崩壊するビルの屋上から、ヘリに助け出されるシーンはスリル満点で、災害描写はホントにみごとなものである。

このタフな二人は、今度はサンフランシスコで被災した娘の助けて〜電話を受けるや、ヘリ、単発の飛行機、モーターボートと乗り物を代えて(すごいね、都合よすぎるけど)一路、ブレイクのもとに向かう。こうして凄腕のレスキュー隊員は家族のためだけに奔走する。ボートで津波の波頭越えなんてトンデモな、爽快なシーンもある。瓦礫漂う中を、またしても都合よく走るボートではある。ブレイクと一緒に助かった兄弟もいい味出してる。こんな超弩級災害で、教授ラボのコンピュータもネットも生きているって……。おかしな点はいくつもあるが、まあアメリカ映画だから。大災害エンターテインメント。(柴田)

「カリフォルニア・ダウン」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01E8I6VWA/dgcrcom-22/


●「カリフォルニア・ダウン」を私も見た。ロック様が主演なのだ。任務放棄には私も閉口。けど、「24」でのジャック・バウアーの行動をアメリカ人は普通だと思っているのだからしょうがない。家族や知人を助けるために、ちょくちょく公務から離れる。日本人は滅私奉公すぎるのかも。

ただ、地震の描写に関しては、ロス地震があったのにこの描写? とは思った。地震ではこういう壊れ方しないよねぇとか、揺れ方が嘘っぽいわ〜とか。日本の建物は丈夫に作られているから、アメリカとは違う壊れ方なのね、と思うことにした。

「ホワイトハウス・ダウン」を連想して一瞬期待し、でも主演はロック様だからな〜と思って見始めたらその通りであった。仕事で疲れて頭をからっぽにしたい時に見る映画。目を疲れさせない吹き替えがおすすめ!

「洗濯の絵表示」が12月1日から変わる。JISとISOの統合が図られるのだそうだ。「海外から輸入した繊維製品は、ISO(国際標準化機構)規格の取り扱い表示となっており、国内で販売する場合、日本の現行JISの表示に付け替える必要がありました」とのこと。

種類が22種類から41種類に増える。しかしまぁ、簡略化しすぎて余計にわかりづらい。基本記号に○、△、□があり、アンダーラインの数や黒丸の数などで細かな違いを表す場合もある。

今まで手洗いとしていた表示は洗濯機になっちゃう。○がクリーニング、△が漂白、□が乾燥。簡略化しすぎじゃない? □の中に○のある図があって、これは乾燥機。○はクリーニングとタンブラーの二つの意味を持つ。いや覚えたらいいんだけどさ。○だけならクリーニングで、□の中の○は二つで一つ、乾燥機。

乾燥機の中にある●は、一つで上限60度、二つで80度。アイロンには三つのものがあって、一つは上限110度、二つで150度、三つで200度。同じ●なのに二つの時と三つの時があって温度も違っていて……って早く慣れておかないと。区役所だよりか何かで一覧を掲載してくれるだろうから、貼らなきゃだわ。 (hammer.mule)

ザ・ロック物語
http://sound.jp/lemonsong/rocksama.htm
「なぜ彼にだけ『様』がつくのか。」

洗濯の絵表示。11月末まで
http://www.caa.go.jp/hinpyo/guide/wash.html

洗濯表示。12月1日から
http://www.caa.go.jp/hinpyo/guide/wash_01.html

洗濯表示マークの変更
http://www.barcode-net.com/chisiki/washing-mark.html
ここの説明がわかりやすい。