はぐれDEATH[12]はぐれだからできる中継ぎ-1/藤原ヨウコウ

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8月末日に51歳になった。正直、ここまで生きられるとは思っていなかった。

去年の吐血事件の時が一番ヤバかったのかもしれない。吐血して一時意識を失い、そのままだと失血死+孤独死という、なかなかに悲惨な死に方が出来たのだが、気がついて自力で救急車を呼んだのは、我ながら強運の持ち主だとも言えよう。

救急隊員の人達が来たとき、また気絶していたので尚更だ。とっさに玄関の鍵を開け、スマホと健康保険証を握りながら気絶していたのだから、我ながらエライと思う(笑)しぶといとも言う。

とにかく50歳というのはボクにとっての寿命であり、その後のコトなどなぁ〜にも考えていなかったので多少の戸惑いはあった。それもついこの間までだ。基本、挿絵画家として生涯を全うできればそれで良し、と思っているのだ。

だから「20世紀最後の挿絵画家」を自称しているし、それなりの努力もしている。結果はどうでもエエねん。とにかく挿絵画家として、自分が考えつくことすべてやれることをやったのかどうかだけがが問題なのだ。





たとえ死の淵で、「ああ、あれやってなかったけど、まぁしゃーなしだ」と思って事切れるのがボクの野望である。それでも最終目標はクローザーだったことは素直に白状しておく。

とは言え生き延びてしまったのだ。予定は未定であるのに、勝手に予定を決定事項として認識していたので、当然のコトながら未定の場合を想定していなかったボクは戸惑うことになる。

もっとも、戸惑い始めて一年間は、米軍の戦闘機の爆音のせいでそれどころの騒ぎではなかったのだが、伏見に来て、ふとこの命題がボクの頭をよぎるようになった。

挿絵画家という立場そのものは、徹頭徹尾ボク個人に由来するので何歳になっても別に構わないのだが、あからさまに周囲を巻き込むコトがあるのに気がついたのは、祇園祭の大工さんのお手伝いに行った時だ。

前の作文のどこかでふれたと思うが、いま鉾立の現場では後継者不足が深刻化している。特にボクがお手伝いしている船鉾では顕著である。幸い若い大工さんが(と言っても40過ぎだが)入ってくれたので、屋根組とか艫周りのヤヤこしいところは、ボクが中継ぎで入ればまず間違いなく彼が伝統を引き継いでくれるだろう。

実際、今年は屋根組のエキスパートである本職の大工さんがいなかったので、二人でああやこうや言いながら、なんとか無事に屋根組を終えることが出来た。ボク一人では無理だったと思うし、彼一人でもまた無理だったろう。

三〜四年前から、ボクは屋根組のお手伝いを本格的に始めていたので、大パニックにはならなかった。もちろん大工さんの引退後を睨んでのことである。あと十年も屋根に乗ってれば、まぁまず間違いなく若い大工さんが一人で出来るようになってるだろう。

伝統なんてのはこんなもんである。先輩に学び、自ら考え体験し、自分の身体に叩き込んで後進の指導にあたり、引退する。当たり前と言えば当たり前のことなのだが、世の中この当たり前が通用しなくなっているのが現状だ。

で、もう一つ重要な役目があるのだ。印刷と表現に関わる橋渡し役として、ボクは京都に戻ってきた。

●若き日々の暴走

元々、大学院では江戸後期の浮世絵版画から明治末期に至る印刷技術の変遷と原稿を作る浮世絵師、挿絵画家達の研究をしていた。

ひょんなコトで印刷会社に入社したのだが、ここで製版や刷版の現場や当時最高峰のオフセット印刷、グラビア、シルク、活版等々、果ては人力トムソン抜きという荒業・成果品の数々を目の当たりにすることになる。

ボクが入社した当時(28年前)は、思いっきりアナログな時代だったので、今となればかなり貴重な経験や勉強をさせてもらったことになる。が、デジタル化の波は目の前に押し寄せていた。

下っ端、大学院出、本部長直轄の部署にいたボクに白羽の矢が立ったのは、ビックリすることでも何でもない。ただ教えてくれる人が誰もいなかっただけの話だ。Macとキヤノン製カラーレーザープリンターを押しつけられて、「これでどないかせい」と言われて、手探りで始めたのは言うまでもなかろう。

当時(実は今もだけど)、ボクが一番信用しなかったのはデータである。データと反射原稿は丸っきり性格が異なる。反射原稿の場合どうしても「解釈」というワンステップが入る。特にフィルム原稿の場合は難しい。元があるだけに、印刷されたものと比較するからである。

これはクライアントもカメラマンも同様で、「色が出てない」と言われればそれでアウトなのだ。こういう環境で「データ通り」ではこっちとしては困る。製版にどんな事情があるかはさておき、狙い通りに再現してもらわないとアート・ディレクターとしてはめちゃめちゃ困るのだ。

この件に関して製版の現場、果ては工場長まで引きずり出して散々話し合った。もちろん一触即発という剣呑な場面も多々あった(というか、そんなんばっかりだったかもしれん)。

特にデジタルデータを管理させられていた現場のお兄ちゃんとは、めちゃめちゃ衝突をした。ボクに言わせれば「アナログでは出来ますが、デジタルでは出来ません」などと言うことはあってはならない。

こっちは一方で、クライアントを相手にしているのだ。出来ないじゃ済まされない。

だから「アナログで出来るなら、デジタルでも出来る」を最低ラインとして死守することがボクの役目になった。クライアントにすれば、印刷の仕方がどう変わろうが知ったこっちゃないのである。営業さんに「いやデジタルですので」と言わせるわけにもいかない。

会社全体の沽券に関わる大問題で、これをクリアしない限り実戦稼働など到底無理な話だ。会社がでかかっただけに、余計その手の問題はでかくなる。とにかくどういう経緯で今の製版、刷版のようになったかは知らないし、細かいやりとりなど憶えてるはずもない。

憶えているのは下っ端のボク相手に、工場長をはじめとする現場の先達の皆様が耳を傾けてくれ、職人さん達も現場の若い衆のケツを引っぱたいてくれたことだ。こういう現場にいられたボクは果報者と言ってもよかろう。

だが、ボクはこの研究というか計画を始めて、約二年で会社を辞めている。会社にいたのは三年だけだったから、会社員時代の成果はほとんどデジタル化の研究に注がれたと言ってもいい。では、なぜ三年足らずで辞める羽目になったのか。

これまた、この研究のせいなのだが、ボクがうっかり失言をして、ボクがいた部署の幹部全員を敵にまわしたからだ。ややこしすぎるから、詳細は省く。おかげでボクは四国の支社に飛ばされそうになったので、さっさと逃げ出した。

この時、本部長から「君の給料をどう回収したらエエんや!」と雷を落とされた。本部長の言う通りなのだが(数少ない理解者だった)まだこっちも若い上に無鉄砲である。聞く耳を持たずにとっとと逃げ出したワケだ。

後から聞いた話だが、「フジワラがいないでどうやってDTPを回すんや」と工場長が怒鳴り込みにきたらしい。おかげで会社からカムバック・コールが来る羽目になったのだが「他部署の長に言われてあっさり手のひらを返すのはどうよ」と不遜にも思い込んでいたので、そのままフリーの道へと走ることになる。

ボクが挿絵画家としてどうにかやっていこうと決心したのは、退社して約一年後のことだ。

色々なことがボクを、挿絵画家の道を目指す上で後押ししてくれた。まず、文章を読んでイメージが出来るかどうかという部分は、余裕でクリアできていた。これは物心ついたときからそうだった。

読む速度も異常に(本人的には普通なのだが)早かった。アナログオフセットの原稿の入れ方は百も承知していたので、ツールがコンピュータだろうが手描きだろうが、特に苦労はしなかった。デジタル時代に突入しても、これといって戸惑うことはなかった。

会社員時代に現場で起きていたトラブルが、退社してから多発しただけの話で、ボクはそのトラブルを回避する知識を持っていただけだ。

だから入稿時にボクの原稿で、何かが起きるということは皆無だった。江戸末期の浮世絵版画から近代印刷技術への移行の歴史が、20世紀末に繰り返されたようなもんである。まぁ勉強はしておくもんだ。

あとはボク自身の表現技術を昨日より今日、今日より明日、という具合に上げていけばいいだけの話だ。簡単に言えば上手になるということである。我ながら実に分かりやすい。

転機はある日突然やってきた。転機なんてのはそんなもんなのだが、会社員時代から、フリーになってからも、お世話になりっぱなしだったM氏に声を掛けられてからだ。これが後の「呱呱プロジェクト」になり、ボクが京都に戻らなければいけなかった第二の理由である。

最初から三年という期限付きで関東に行っていたので、京都に帰るのは当然の帰結なのだ。前にも述べたが、これが第一の理由である。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
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装画・挿絵で口に糊するエカキ。お仕事常時募集中。というか、くれっ!