私症説[84]求心的に生きるとはどういうことか/永吉克之

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31歳から一年間、オーストラリア(シドニー)で過ごした。他に、短期旅行として、ニュージーランド、タイ、アメリカ(ニューヨーク)にも行ったが、好き好んでそれらの国に行ったわけではない。

いまわの際、「ああ、若い時に海外生活を経験しておけばよかった。俺はもっと視野の広い、コスモポリタンな人間になっていたかもしれなじゃないか。そして、《コスモポリたん》というキャラをヒットさせて、大儲けしていたかもしれないじゃないか……」

と、未練を残したまま死んで成仏しきれず魂魄この世にとどまりて……を未然に防ぐために行ったのであるが、結局、コスモポリタンにもポリタンクにもならず、仕事を辞めてまで行く必要はなかったというのが結論である。





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国際感覚を身につけることのできる人は、観光旅行しても身につくだろうし、できない人は外国で一生暮らしても身につかないような気がする。

明らかに、私は後者に属する人間である。そもそも外国には関心がなかった。十代の頃だったか、父親が「金は出してやるから、外国旅行してこい」と言ってくれたのを、なんだか面倒くさくて、断ったことがある。

今でも、外国旅行するならどこに行きたい? と聞かれるのが煩わしくて、台湾とか韓国とか、近場でいいんじゃない、安いし、なんて飲み屋でも物色するような調子ではぐらかしている。

こんな男が外国に行ったところで、貴重な何かを学んでくるとは思えない。

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人間の行動や志向を、ざっくりと、遠心的なタイプと求心的なタイプに分けてみる。

外洋に向かって足を踏み出し、めっちゃ見聞を広め、外国人の友達をめっちゃ作って、外国語がめっちゃ巧くなって、めっちゃ帰国して、めっちゃめちゃにする、といったような行動は、遠心的な人びとのものであって、求心的な人びとには向いていないから真似をすべきではない。時間と金の浪費である。

求心性を保ったまま外国に行っても、得られるものは何ひとつない。それは、豪華客船クイーンエリザベスで世界中の港を巡りながら、船からは一歩も出ず、日がな一日カジノで遊んでいるようなものだからだ。

「ほらほら永吉はん、ウランバートル港に着きましたえ。たまには船降りて、観光してきやはったらどないどす?」

カジノでルーレットを回していた祇園の芸妓、まめ里が、体当たりしてきて私を船外に撥ね飛ばしたので、私はタラップをごろごろと転げ落ち、顔面をしたたか打って鼻血をだらだら流しながら立ち上がり、周囲を見渡した。

海のない国、蒙古の首都ウランバートルには港がないので、沖仲仕も、船員相手の曖昧宿も見当たらない。

「これのどこが港なんだ……いや待てよ。これこそが真の港の姿なのかもしれない」

そういえば、沖仲仕も曖昧宿も、まだこの目で見たことはなかった。それらはすべて、書物から得た知識に基づいた私の思い込みかもしれないという疑念が生じ、私は事実を確かめるために、港周辺を歩き回った。

すると、貨物船のそばで、沖仲仕たちが一塊になって地面に坐り込んで一服しているのが見えたので、近づいて尋ねた。

「一体全体、ここに沖仲仕はいるのでしょうか?」

それを聞いたひとりが吹き出すと、みなが蒙古語で笑い出した。

「いないよ。港でもないところで沖仲仕になんの用があるってんだい?」

頭領らしい男がそう言うと、沖仲仕たち全員が立ち上がって貨物船に戻り、荷運びを始めた。

「曖昧宿なんてのもないんだよ、この、タコ!」

背後で蒙古語の罵声が聞こえたので振り返ると、厚化粧が逆に年齢を露呈させていることに気づいていない、六十くらいのミニスカートの女が、なまめかしい笑顔で怒っていた。

「曖昧宿じゃないとするなら、あなたの後ろの、軒に赤いランプが灯っている家は何なんですか?」

「港でもないのに、船員相手の曖昧宿なんかあるわけないじゃないか、この、うすら馬鹿!」

「で、あなたは何なんですか?」

「そんなに曖昧宿が好きなのかい、この、ヒヒ親爺!」

《タコ、馬、鹿、ヒヒ》と、動物で統一したセンスには舌を巻いたが、この女と話をしてもムダだと思ったので、さっさとクイーンエリザベスに戻ってカジノで遊ぼうと踵を返した時、ふと、この光景をかつて見たような気がした。

その瞬間、何十年間も意識下で眠っていた記憶が、昨日のことのように鮮やかに甦ったのだった。

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小学生の頃、火星が最接近するというので、それを観察したくて両親にねだって、子供向きの顕微鏡を買ってもらったことがある。

最接近の夜は幸い晴れで、アパートのベランダから空を仰ぐと、小さな、しかし明らかに火星とわかる赤い星が浮かんでいるのが見えた。私はさっそく顕微鏡を三脚に固定し、火星の方向に向けてレンズを覗き込んだ。

視度調整リングを回してピントを合わせると、火星の表面がくっきりと見えた。倍率を上げると、火星の素材であるポリ塩化ビニルの分子が姿を現した。

「父さん、火星の分子が見えたよ!」

「そうだろう。もっと倍率を上げてごらん」

父に言われずとも、昂奮していた私はダイナミックに倍率を上げて、塩素原子のなかに入っていった。

「いま、何が見えてる?」

「あ!」

原子の中心に原子核はなく、そのかわり、貨物船のそばで荷物の積み降ろしをしている男たちと、軒に赤いランプを灯した家の前に立っているけばけばしい装いの女たちが、自然界の四つの力(重力、電磁気力、強い力、弱い力)で結びついていた。

「それ、何だかわかるかい? 沖仲仕と曖昧宿だよ」

「オキナカシ、アイマイヤド……なにそれ?」

「はは。大人になったらわかるさ」

そして父は、私の頭を撫でながら、こう言った。

「お前が、望遠鏡じゃなくて顕微鏡をねだった時、ひょっとしてこれはと思ったんだけど、やっぱりそうだった。お前は立派な求心的人間だ」

私の家族は両親も弟も妹も、そろって求心的人間だったので、家族みずからの重力によって収縮し、一両日中に家ごと白色矮星となる運命にあることを、皆すでに知っていたはずなのだが、誰もそれを口にしなかった。

それが求心的家族の宿命だと本能的に知っていたからかもしれない。

南無阿弥陀仏。


【ながよしかつゆき/戯文作家】thereisaship@yahoo.co.jp

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