ゆずみそ単語帳[05]自虐の国のゴジラ/TOMOZO

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ゴジラに、私は期待をしていた。

10月の第2週に、全米の数都市の数館で、三日間だけ、しかも一日一回限りという超限定で『シン・ゴジラ』が公開された。

日本で異常なまでに話題になっているのを聞いていたので、私はかなり期待して観に行ったのだった。

たまたまその時、カリフォルニアに用事があって行っていたので、はからずもグーグル本社からほど近いシリコンバレーの映画館で、「ニューゴジラ」のアメリカ上陸をみとどけることになった。

この映画館は全席完全指定で、ボタンを押すと足乗せ台がぐいーんと出てきて椅子というより寝台みたいになる、キングサイズのシートが売り。一つの椅子が巨大なので席数はそれほどないけれど、前のほうまでほぼ満席だった。

IT業界のギーク(オタク)君たちが密集する地区だけに、米国のほかの地域よりもゴジラについての認知度は格段に高いとおもわれ、ゴジラが登場するたびに館内のあちこちから歓声が上がるという、かなり熱い上映会だった。ゴジラの足のかたちのスリッパを履いて観にきている人さえいた。そんな熱い米国ゴジラファンにまじって観たシン・ゴジラ。

いや面白かったんだけど、ううーん、惜しい! もうちょっと頑張って、アメリカ人にぎゃふんといわせてほしかった。以下感想。(ネタバレあります)

1)この映画は、自虐的。良い意味で
2)政治家と官僚のおじさんやおばさんはとてもリアルだった
3)でも「カヨコ」の破壊力が尋常ではない
4)アメリカがファンタジーランドとして描かれている
5)いろいろな意味で閉じている





1)まず、この映画を観たアメリカ人の多くは、日本人とはなんと自虐的な人々であることか、と思うのではないか。

でもそれは、ゴジラ本体のつぎにこの映画が誇るべき美点だと思う。

先住民に対する略奪や他国への侵略というような、自国の負の歴史を世界史の中で包括的に眺めることを「自虐」と捉える、困った人たちが日本にも一定数いる。

わたしには理解できないけれど、そういう人は、きっと「誇り」と「盲信」を履き違えているのだろうと思う。実際、自覚的になにかを信じるのはとても難しいことであるし、もしかしたら日本人にとってなにかを信じるということ自体がチャレンジなのだろうかとも思う。

日本というのは、鎖国>開国>帝国>敗戦>高度成長その他。…という歴史の中で「信じる」ということに凝りてしまった特殊な国といえるのかもしれない。

誇りにできる共通システムがないので、日本の「愛国」という概念はとてもとても抽象的な、感情論になる。

アメリカ人、とひとくちにいってもいろいろいるけれど、アメリカ人の多くはおおむね、自国のシステムとパワーを全面的に信じ、誇りを持っている(もちろんそこには強烈な矛盾があるし、ほつれが顕在化して今現在の社会問題になってはいるけれど)。

ベトナムを経験しても、イラクの戦争が泥沼になっても、国内に貧困がはびこっていても、自国の約束するシステムと自国の未来を、やみくもといっていいほどに信じようとするのがアメリカのコンテクストだ。

二大政党のどちらも、強く正しいアメリカをうたわなければ決して選挙には勝てない。そしてそれは、決して空疎な形容詞ではなくて、リアルな感情である。

右の人も左の人も、解釈は違うけど国の基幹である思想とシステムの正当性については、揺るぎない確信を持っている。ブッシュの愛国とオバマの愛国ではかなり違うけれど、どちらもほんとうに真面目に、国が体現するシステムを愛しているのだ。あるいはそのように人に信じさせるのが上手い。

それに対してこの映画に描かれる日本の人々は、「日本という国のありかた」と、「日本ができること」に対して絶望している。

正体不明のモンスターが東京を破壊していても、政府はなかなか動けない。組織が硬直しているので、会議ばっかりやってて初動が遅いし、本質的な問題をとらえて決断できる人がいない。

能力のある若手は苛立つが、なかなか力を発揮できない。そして自衛隊はわりとあっさり壊滅してしまう。政治家や官僚たちはアメリカの圧力の前に、首都を核攻撃の標的にされてもなすすべもない。

官民共同体の力を集めた決戦であやうくゴジラに打ち勝っても、東京駅の真ん前に黒い巨大なカタマリとしてゴジラは残り、カタルシスのすくない勝利なのである。これが素晴らしい。

たぶん、この無力感や自信のなさを、アメリカの観客はとても居心地わるく感じると思う。

アメリカンにとっては、自国の無力さを思い切って描くこの姿勢は「自虐的」としか捉えられないのではないかと思う。でもそれがよいのだ。

そう言われたら、アメリカンたちに教えてあげればいいのだ。バカだなあ、それは内省というんだよ、と。

やみくもに「俺についてくれば強いアメリカがカミングバック」なんてメッセージを信じたがる某大統領候補の支持者たちよりは、壊れた都市を前に自国とおのれの無力さをみつめる、この映画の主人公たちのほうが百億倍くらい建設的だからだ。

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2)登場人物の多いわりに静的な画面がほんとうに日本らしくて、面白かった。

この政治家たちのダメさと、硬直したシステムを面白おかしく描く静かな演出は、アメリカの観客にもちゃんと伝わっていて、会議や会見の場面でもしっかり笑いが起きていた。

みんな同じように表情の乏しい政治家や官僚はリアルで、「巨災対」の地味で実直なはみ出し者たちにも、かなりのリアリティを感じることができた。

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3)…それなのにカヨコ。

それまで前のめりになって観ていたのに、「カヨコ・アン・パタースン」役の石原さとみがでてきた途端に、わたしはどひゃっ! とのけぞった。なぜカヨコ!

断っておきますが、石原さとみの演技や英語力がだめというのではないですよ!

とってもチャーミングなキャラクターだったし、カリフォルニアなまりの英語も自然でベリーグッドだった。

これが、「西海岸に留学したあと外資系企業で働いてる気の強い人」または「押しの強い帰国子女」という役柄であれば、なにも文句はなかった。

しかしながら、どう間違っても「アメリカ生まれアメリカ育ちの日系3世で米国大統領を目指す超エリート」の英語ではないし、カヨコの言うこともやることもアメリカ人ではないのである。

(それに、ワシントンDCの高官として日本に派遣されるレベルのエリートは、たぶんZARAで買い物はしないよ!!)

石原さとみの問題ではなくて、設定そのものが無理筋すぎるのだ。もしネタでなく真面目なら、ここはホンモノの英語圏の女優を使わなければ無理である。

これはたとえば、まるっきり東北弁の人が関西生まれ関西育ちのたこ焼き屋の女将さんを演じるようなもの。「違和感」というレベルではなく、意味がわからない。

アメリカのB級映画には、今でもちゃんとした日本語が喋れない怪しい日本人が出て来る。それはそれで味わい深いけれど、真面目に受け取るわけにはいかない。カヨコはそれの逆バージョンであり、しかもなんとしたことか、この映画のメインキャラの一人で、アメリカを代表する顔なのだ。

フェイクなアメリカ人・カヨコの破壊力はすさまじい。例えば防衛大臣役の余貴美子など、とても説得力があり存在感を放っていたのに、カヨコは登場しただけでそのリアリティを軽々と粉砕してしまうのである。

怪獣映画とはいえ、この映画は真面目なSF映画と同じくらいのシリアスな体験を提供できるポテンシャルがあるはずだし、日本の観客に対してはきっとそれが成功しているはずなのに、英語圏の観客にとってこの映画を少しでも真面目に受け止めるチャンスを、カヨコの存在が徹底的に粉みじんに破壊してしまった。ゴジラ以上の破壊力である。

カヨコが出て来てなにか喋るたびに、どっひゃ〜〜〜! となって心拍数が上がるので、後半はあんまり映画に集中できなくて、もういいからはやくゴジラ出てきて! ゴジラ! と願うのみだった。

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4)カヨコが「わたしの国」と呼ぶアメリカは、そして、「実力があれば誰でものしあがれる」国として、なんだかぼやけた輪郭で描かれている。

そもそも「実力」とは何かが一コマも描かれていないので、カヨコにどんな実力があるのかも謎である。

アメリカの政治家にとって、実力と言うものの中に、「アメリカンスタンダード」を体現しているかどうかということがあるのは間違いない。

それは中身というよりはむしろ外見であり、「正当性」を感じさせる力、「わたしはアメリカの価値観を体現している」と人に信じさせるコミュニケーション力、「つながる力」である。

それにはとほうもないアーティキュレーションが要求される。ヒラリー・クリントンだって、遊説先によって少し英語のトーンを変えているくらい、微妙なコミュニケーション力なのだ。

たぶんそれは日本の政治家がまったくもって持っていないし、ひょっとしたら見たことも聞いたこともないものだ。だからダメとかいってるのではなくて、そういうシステムなのだ。

どんなに頭が良くても、インド訛りのインド系アメリカ人や日本訛りの日本人または日系アメリカ人が、米国大統領に選ばれる可能性は、現時点ではゼロである。

この映画ではアメリカが重要な役割を果たしている。戦後ずっと日本の首相のうしろに控えていた顔のない存在として。それはいいんだけど、きっとアメリカの観客にはそれがまるっきり伝わらない。それが惜しい。

代わりにこの「カヨコ」を観て、アメリカンたちは困惑して帰っていくことだろう。ゴジラはクールだったし、あの女の子は可愛かったけど、笑っちゃうよね、と。

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5)そういう意味でも、この映画はとても閉じている。

製作時に、国外の観客までは考えなかったのだろうけれど、あまりにも残念なのだ。

上映後、場内では拍手が起きていた。ゴジラのコアなファンたちには満足のいく映画であったらしい。

でももっと辛い、もっとつながれる、もっと動かされる、もっと普遍的な映画にもなれたはずなのに、と私は少し悲しかった。

唯一の被爆国で、そして3.11の大災害を経験したばかりの国の人が作ったこのゴジラは、もっともっと、世界につながれる映画であってほしかった。

世界一の核保有国であり、歴史上唯一、市民の上に核爆弾を落としたことがあり、その事実を「仕方がなかった」「正義だった」とほとんどの国民が考えているこの国のひとたちを、すさまじいリアリティで説得し、感動させて、震え上がらせ、瓦礫の街の目線にいっとき共感させる映画であってほしかった。

自分の国の首都が核ミサイルの標的にされる無念さを、ゴジラへの畏怖とともに体感して、震えてほしかった。

わたしはちょっとばかり、ゴジラに期待しすぎていたらしい。


【TOMOZO】 yuzuwords11@gmail.com

米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。

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