はぐれDEATH[16]はぐれの異常な食事情または私は如何にして心配するのをやめて
── 藤原ヨウコウ ──

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「痩せてますね」とよく言われる。一日一食だし、その中身もお粗末そのものなのだが、別に修行をしているとか、何か目的があるわけじゃありません。貧乏な上に胃の容量が小さいだけの話です。

ぼーずで痩せていると、本職のお坊さんよりも修行の鍛錬度が高く見えるらしいのだが、残念ながらボクはエカキだ。悟りの世界など、はぐれとは縁もゆかりもないのである。

元々、食に関してはそれほど積極的ではない。というか、個人的には食べずにすむなら食べない方がお気楽なのだが、さすがに生きている以上そういうワケにはいかない。

いつの間にか一日一食になっていた。だからと言って、凝ったモノを作ったりはまずしない。面倒くさいからだ。あと経済的にもゆとりがない。

幸いお米を食べてれば基本シヤワセな人なので、こういう時便利である。ところが、今の部屋には炊飯器がない。引っ越し当初は冷蔵庫もなかった。

目をつけたのがお豆腐である。安くて美味しく頂ける。最初の頃は、豆腐と納豆だけで済ませていたのだが「これじゃ大豆ばかりやなぁ」とある日気がつき(遅いっ!)豆腐とキムチに切り替えた。このコンビネーションはなかなか良かった。

ただ食に関する確固たる考えはある。ひとつだけだけど。「出されたものはきれいに食べましょう」

これは料理をして下さった方への礼儀だと勝手に思っている。手間暇かけて苦労して作って下さるのだ。この程度の礼儀はわきまえておきたい。




この考えは小学生の頃に身につけた。当時、母が色々な料理にチャレンジしては何度も失敗し、最後はみごと美味しく作り出した、という様子を眺めていたからだ。

こうして母は料理のバリエーションを増やしていった。悲しいかな、父と妹は非情なぐらい正直者なので、失敗作を「不味い」と言って即残すのだが、ボクにはそれが出来なかった。

結局、敗戦処理をするが如く黙々と食べ続けたのだが、おかげで家族に「舌の感覚がおかしい」と今でも思われている。苦労して作ってくれるのを「不味い」の一言で却下するのはいかがなものか、と素朴に思っている。

食に関するボクの評価は極めて低いが、こと母の料理のバリエーションを増やす貢献度は我ながらすごく高いと思う。残念なことに、母もボクの舌に関してはかなり懐疑的ではあるが。

さて、これが後のボクの食でどのように反映されたかというと、「こいつは何でもどれだけでも実に美味しそうに食べるので作りがいがある」という得体のしれない評価へと変貌するのだ。

何しろ食事中のボクは、基本ポーカーフェイスなのだが、食いっぷりがいいらしい。意識したことないけど。だから、出す方は「どんどん食べなさい」と言うことになる。途中でギブアップすることもない。

作ってくれた方が嬉しそうに次の皿を出すと、こっちとしては断り切れないのだ。胃の容積が小さいので当然限界はあるのだが、にっこり「ありがとうございます」と受け取ってしまう変な癖があるので、際限がなかったりもする。

ただ相手が喜んでくれるので、ボクとしてはそれでイイのだ。その味が母の実験料理の失敗時よりも劣るなどということは、まぁ普通はない。

他の人はともかく、自分に対しては「美味い、不味いなど贅沢を言わない」と勝手に信じ込んでいるから恐ろしいのだが、かと言って意識改革をしようなどとは微塵も考えていない。食に関わることで、何か建設的なことをする暇があるぐらいなら、別のことに回したいだけだからだ。

「豆腐とキムチ」という組み合わせは、実に楽ちんである。とくに夏場には最適だ。ここだけ見るとヴェジタリアンのようだが、そんなことはまったくない。

たまにソーセージを茹でて食ったりもしている。業務用スーパーにいくと1kg単位で売ってるのだが、これが実に重宝するのだ。

ちなみにボクは業務用スーパー以外で食料を調達しようとは思わない。ここで十分だし安いので満足なのだ。変な添加物が入っていようが、賞味期限が怪しかろうが、そんなことはどうでもいいのだ。

一人暮らしなので食べるのはボクだけだから、ハードルはないに等しい。栄養価がどうの、カロリーがどうの、などということもまったく考慮しないし、塩分控え目などどこ吹く風だ。特に夏場の塩控え目など、ボクに言わせれば狂気の沙汰である。

しつこいようだが、ボクはエアコンが大の苦手である。炎天下でサックスも鳴らす。汗はじゃんじゃん出る。水分と塩分の補給は身体が必要とするので、身体の言う通りに摂取する。結果、たいてい塩分が多かったりする。単純に自然の摂理の一言で片付けることにしている。

ちなみに糖分は朝の珈琲で摂取する。朝に糖分を摂取しておかないと、仕事にならないのだ。脳の活動に糖分が大きな役割を果たしているのは言うまでもあるまい。

極端に集中するボクにとって、糖分摂取は重要なのだ。ただ集中出来る時間に関しては、かかりつけ医から厳に戒められている。連続100分以上集中してはいけないらしいのだ。一般的には、100分以上集中することは不可能らしい。

不可能を可能にしてしまうところが、はぐれのアホな性である。半日集中しきって、時間を忘れて仕事をする、ということをフリーになってから続けていたのだが、これが後の神経障害発症のトリガーとなったらしい。

一度狂った神経はなかなか治らない。特にボクの場合は、気質や性格に起因している部分も少なくないらしいので、完治は不可能とさっさと診断を下されてしまった。

ここまでサクッと言われると、こっちとしては納得するしかないではないか。実際、容態が良くなったり悪化したりは日常茶飯事で、ボクもこんなもんだと思っている。

話が逸れた。食の話だった。ボクは「食べられるだけで幸福」と言い切れる人なのだ。精進料理を毎日出されても、平気な顔をしている自信だってある。なかなか便利な身体だと思う。

そもそもなぜ一日一食になったかというと、学生時代お金がないのにバイトをしないという、恐ろしい生活をしていたからだ。水だけで10日粘ったことだってある。なぜバイトをしなかったかって? 何をやっても長続きしなかったからだ。鉾立の大工さんだけは異常に長続きしてるけど。

ここまで極端なのは、単にワガママだからだ。これは完全にボク個人に還元されることなので、文句を言う筋合いはまったくない。

ただ学生時代はドカ食いが出来た。今でも食い貯めは出来るが、胃の容積が小さいので昔ほどではない。頑張ってもせいぜい一週間弱というところか?

ただ京都に戻って一日に一食は必ず食べるようになった。運動量が飛躍的に増えたせいである。それでも「豆腐とキムチ」で保つのだからたいしたもんだ。

運動といっても基本はサックスである。これがそうとうキツイ運動になってしまうのだが、何しろ辻堂時代まったく鳴らせなかったのでこっちに戻ってからはせっせと宇治川へ鳴らしに行っている。

人影がまばらどころかまったく見えさえしないのだ。安心して爆音が出せる。気分がイイのはもちろんだが、とにかく身体への負担がすごい。横隔膜を支える筋肉(主に腹筋、側筋、背筋)と口周りの筋肉への負担は、下手な筋トレよりもよほどきく。

腹回りの筋肉が疲労しきっているので、家に帰っても食欲がなく「豆腐とキムチで十分」という条件が整ってしまうのだ。お腹が満足すればそれでお終い。一人暮らしをしていると下限はどんどん下がっていく。それでも普通に動けるのだから、ある意味環境にも優しかったりする。

「食」といえるようなレベルの話ではまったくないのだが、はぐれなので仕方がない。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
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装画・挿絵で口に糊するエカキ。お仕事常時募集中。というか、くれっ!