まにまにころころ[106]ざっくり日本の歴史(後編その24)
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。『真田丸』も残すところひと月。冬の陣が終わろうとしています。昌幸ロスが騒がれていましたが、大坂五人衆もいい味を出していて、最後まで目が離せません。後藤又兵衛がちょっと鬱陶しいですけど。(笑)

昨夜の回では久しぶりに真田昌幸の片腕、出浦昌相が登場して話題に。ロスとまでは言いませんが、真田昌幸と出浦昌相のコンビが生き生きとしてた時期が、やっぱり面白かったなあと。単純に、笑えるシーンも多かったですしね。

真田安房守昌幸。安房守と言えば、勝海舟も安房守でしたねと、そんな流れで今回は勝海舟の話に持っていこうなんて思っていたのですが、ちょっと今回は人物紹介をいったん離れます。

というのも、「安房守って何?」というような話をこれまでしたことなかったと思いまして。ついでに他のこともまとめて、簡単に武士の名前とか名乗りに関する話をしたいと思います。




◎──真田左衛門佐信繁、通称・源二郎、幼名・弁丸、豊臣信繁

昔の人はいくつも呼び名があって、しかもころころ改名したりするので、時代小説を読んでいても混乱することが多いのですが、基本的なところを簡単に。

武家の子は生まれるとまず、幼名をつけられます。そして元服すると、正式な名前として諱(いみな)をつけます。真田さんちの弁丸ちゃんは、信繁という諱を持つことになりました。

この「諱」というのは、正式な名前、本当の名前であるわけですが、基本的に本当の名前というものは使われるシーンがかなり限定されていました。呼べるのも親や主君といった上位の人だけで、気軽に教えることさえ避けられたり。いみな=忌み名、つまり呼ぶことを避ける名前でした。

というのも、本名というのはその人の魂と強く結びついた神聖なものであるという考え方が、古くから世界中にあり、特に日本では古代の中国からきたその考え方に影響を受けて、慣習として根付いていました。

で、名前が呼べないと不便なので、つけられた呼び名が、信繁の場合は源二郎。

中国の例で言えば、「諸葛亮孔明」は、「諸葛」が家名、「亮」が諱、「孔明」が字(あざな=通称・呼び名)です。

呼び名はあくまで呼ぶためのものなので、そのまま幼名で呼ばれたりもします。誰のことか分かればいいので、適当につけられたあだ名も似たようなものです。

もっとも、その呼び名で呼ぶのでも親しいもの以外が呼ぶのはちょっと失礼とされていて、役職、官職がある場合はそちらで呼ばれることが一般的でした。左衛門佐(さえもんのすけ)というのが、真田信繁の官職です。今で言えば、親しくないのにあだ名で呼ぶのはちょっと失礼、という感じでしょうか。

さらにもうひとつ、真田信繁は書面で豊臣信繁と書かれていることがあります。この「豊臣」は言うまでもなく「豊臣秀吉」由来のものですが、秀吉から豊臣という姓(せい)を賜ったものです。この姓というのが、現代からするとまた少し分かりにくいもので。後ほど改めて説明します。

まあ、だいたい名前に関することをざっと書くと以上のような感じです。

◎──氏(うじ)、姓(せい・かばね)、官位、官職

「安房守(あわのかみ)」から始まった今回の話ですが、これも官職名です。正確には職名、かな。ここから少し、幕末の話はどこへいったというくらいに古い話へとさかのぼっていきます。超複雑な上に例外なんかも多くて、正直、正確には理解し切れていませんので、参考程度と思って読んでください。

先ほど、「姓」が分かりにくいと書いたのは、これを「せい」と読む場合と、「かばね」と読む場合で意味が違ってくるからでして。今回「かばね」の方はあまり関係ないので、適当に読み流してください。「せい」は「氏(うじ)」と同じものと思ってください。

ということで、話はいきなり古代にさかのぼります。まずは氏(うじ)の話。氏というのは血縁による同族集団につけられた呼称です。その一族が住む土地に由来する「蘇我」「葛城」「吉備」といったものや、その一族が担った職に由来する「物部」「大伴」などの氏がありました。

また、ヤマト王権との関わりをあらわす姓(かばね)というものが作られて、「臣(おみ)」「連(むらじ)」「国造(くにのみやつこ)」など、これらがその氏の地位をしめす称号として与えられました。天武天皇の時代にはこれが「八色の姓(やくさのかばね)」という制度として整えられ、「真人(まひと)」「朝臣(あそみ・あそん)」「宿禰(すくね)」など八種が定められました。

姓(かばね)は柔軟な人材登用を図る手段として用いられ、古代において官職が有力な氏族に固定化されていたものを、有能な人材がいる氏に対して高位の姓(かばね)を与え、登用するためのものでした。

ただ次第に単なる名誉をしめすために与えられるものになり、あいつも朝臣、こいつも朝臣、って感じに。まあ有名な氏には、まるでセットのように「朝臣」が付いています。ただ制度的にはともかく、名誉的な意味では、明治時代でも使われたりしました。

官位や官職もまた、似たようなものと言えば似たようなものかもしれません。聖徳太子、つまり推古天皇の時代に作られた「冠位十二階」の制度が「官位」の始まりです。要するに役人の序列をしめす制度です。

時代が進むに連れてこの十二階は、十三、十九、二十六にと増え、天武天皇の時代に「冠位四十八階」となりました。そして大宝律令(大宝令)で30に整理されて、明治維新までその30が使われ、明治に18に再整理されました。正一位だとか従三位だとかというのが、官位(位階)です。

大宝律令では、正一位(しょういちい)、従一位(じゅいちい)から、正、従と三位まで続き(「従三位」だけ「じゅさんみ」と読む)、四位から八位まではそれぞれさらに上下が付いて4段階ずつで、その下に大初位、少初位の上下がついて、2×3+4×5+2×2で、しめて30段階と。

ちなみに位階制度は現代も残っています。現代では、死なないともらえないんですけど。生前に国への貢献が高いと贈られることになっています。

官職は、元々は文字通り、律令制度における役所での職のこと。高校で日本史を選択した人は「二官八省一台五衛府」なんてのを覚えたかも知れませんが、それらの役所での職位、太政大臣・左大臣・右大臣・卿・大夫・頭なんてのがそれです。そして各国(当時で言う日本国内の「国」)には、守(かみ)・介(すけ)といった役職が置かれました。

時代と共に役所はあれこれ再編されましたが、それはそれとして、官職の名前自体が、職ではなくて位や名誉を指すものになっていきました。

武士が台頭し律令制が崩壊した後は、武士の序列をあらわすために官職の名称が用いられ、「武家官位」として使用されました。武家政権が成立した後も、基本的には朝廷から賜るものでしたが、自称する武士も多くいたりして、適当と言えば適当な感じでした。主君が家臣に恩賞として勝手に与えたり。

羽柴筑前守秀吉、明智日向守光秀の「筑前守」や「日向守」は、信長が与えたものです。信長が一時名乗っていた織田上総介信長の「上総介」は自称です。後々には朝廷からどんどん高位の官職を受けていますけれど。名誉をあらわすためのものなので、地名がついていても、任国(領地)とは関係ありません。

さてここでもう一度、「氏」の話に戻ります。先ほど氏には土地由来のものと職由来のものがあると書きましたが、天皇から姓(せい)を賜る、賜姓というパターンのものがあります。

日本史の授業を思い出してください。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿たちを倒して、大化の改新を行って、という話のあたり。中大兄皇子は後に即位して天智天皇になって、中臣鎌足は天智天皇から「藤原」という姓を賜りました。後に権勢を振るう藤原氏の始まりです。

また日本史の授業ではさらに橘諸兄(たちばなのもろえ)という名前を聞いた覚えがないでしょうか。この「橘」も、天皇から賜ったものです。橘諸兄は、臣籍降下(皇族を離れる)際に、橘の姓を賜りました。皇族には姓がないので。

同じパターンとしては「源」「平」もそうです。臣籍降下時には、源か平の姓になるのが通例となっていきました。なので、源氏と平氏は、いくつも系統があって、源氏はそれぞれの祖とされる天皇の号をとって、嵯峨源氏、清和源氏、村上源氏といった具合に区別されます。

平氏も大元は同じく天皇の号をとって、桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏と分けられますが、長く続いたのは桓武平氏くらいで、桓武平氏から後々さらに分類されていきます。

この賜姓による「源氏」「平氏」「藤原氏」「橘氏」は、ひとまとめにして、「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」なんて言われたりします。源氏と平氏は、武士の代表格、藤原氏は貴族の代表格ですね。

源頼朝以降、征夷大将軍は源氏が務めるとか、摂政・関白は藤原氏が務めるとか、氏と官職は密接に関係することがあります。特に、摂関は藤原氏というのは、誰もが認めるルールでした。藤原氏の中でも、摂関家と呼ばれる近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家に限られていました。

羽柴秀吉は関白の地位に就くにあたって、藤原氏である近衞前久の猶子(養子のようなもの。名目上の親子関係を結ぶ)となりました。そしてさらに、関白を藤原という氏から引きはがすため、天皇からの賜姓というケースを利用して新たな姓を創始しました。「豊臣」です。

秀吉はこの豊臣の姓を、身内のほか有力な家臣にも与えています。真田信繁も豊臣姓を下賜されたひとりです。

◎──氏(姓)と名字

羽柴秀吉は豊臣秀吉に、真田幸村は豊臣幸村に改名したのか。違うんですよ。「豊臣」は「姓(せい)」で、「羽柴」「真田」は「名字」なんです。ここが現代と違ってややこしいところなんですが。

氏(姓)は、血縁による同族をあらわすものでしたよね。ということは、時代が進むにつれて、どんどん同じ姓の人が増えていくわけです。区別するための名称なのに、それでは混乱してしまいます。またどんどん増えれば「血」より「家」という単位のほうが、狭い分、結びつきは強くなります。

そこで「家」をあらわすものとして名字(家名)が生まれました。制度上の紆余曲折もあり、完全に同じものとは言えない部分もありますが、現代の名字はまあこれと同じ質のものです。

姓は、よほどの家柄でないと、辿ることに限界があるので、自称も多いです。信長は平氏を、家康は源氏を名乗っていますが、真偽は分かりません。秀吉も藤原氏の前は信長にならって平氏を名乗っていました。まあ嘘でしょう(笑)

◎──今回はここまで

ということで、思いのほか長々と、読んでいて眠い話になってしまいましたが、だいたいこんな感じです。次回は勝海舟の話、と言いたいところですが、未定です。また今回みたいに、全然違う話を突っ込む可能性大です。


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
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