はぐれDEATH[17]とことん自己チューはぐれの読書/藤原ヨウコウ

投稿:  著者:  読了時間:11分(本文:約5,400文字)



とりあえず商売上の話はパス。あくまでも読者としての立場から。

物心ついた頃から身の回りにイヤと言うほど本があった。祖父の家に行けば、本しかなかった、と言ってもイイぐらい本は腐るほど(実際、腐った本もあったのだがそれは内緒だ)あったので、夏休みなどに遊びに行ったときは、祖父の書庫に入り浸っていた。

祖父の蔵書なので戦前の本も多数あった。だがボクに言わせれば同じ日本語である。多少難しい漢字が出てきても、ご丁寧にルビが振ってあったので小学生でも無理なく読める。変体仮名やら文語体の基礎は、この頃にほとんど身につけた。だから本を読むのは自然のなりゆきである。

最初は母の読み聞かせだったと思う。気がついたら勝手に本を引っ張り出して読むようになっていた。いつ頃からはさっぱり憶えていない。別に最初からややこしい本を読んでいたわけではない。年相応の本を読んでいたと思う。

母が児童書を読むのが大好きだったので、とにかくネタには困らなかった。ただし、タイトルからして怖そうなのはそっこーで避けていた。読んで最初にショックを受けたのは多分「白雪姫」か「シンデレラ」だったと思う。あんなネチネチした話はダメだった。だからグリム童話とかからも逃げた。





一時期「本当は怖い」というキャッチをつけた本が随分出ていたが、ボクに言わせれば「何をいまさら」という気分だった。いくらソフィストケイトしても怖い話は怖いのである。むしろ読解できないという方が不思議で仕方なかった。

ところで「読書」と名付けられた一般的な行為について、小学校低学年の頃は戸惑いっぱなしだった。ボクにはある種、特殊な行為であるように思えたからだ。ボクにとっての本は単なる娯楽に過ぎない。当時のボクには、読書などと大層なことを言われると、けっこう困っていたのだ。

読書感想文というヤツにも随分悩まされた。なぜなら、ボクの感想は基本「おもしろい」か「つまらない」の二つしかないからだ。「どこが面白かったか?」などと言われても正直困る。

面白いと感じたコトに理由付けを強要されているような気がして、天の邪鬼なボクは「なんでそんなコトを人に教えたり発表したりせなあかんねん」と反発したのも事実である。

もちろん、読書感想文は常に無味乾燥なものになった。本当にてきとーなコトしか書かなかったし。よく本の巻末に解説なるページがあったりするが、話のあらすじがダラダラ書かれているだけの、解説にもなっていない文が載っていることがある。ボクの読書感想文というのは限りなくこれに近い。

ボクが読む本は、その時の興味に任せて選んでいるだけだ。SFなり推理小説なり、ジャンル・プロパーが比較的多いケースがよくあるらしいが、ボクは該当しない。もちろんどちらのジャンルの本も読んでいるが、かなり気紛れである。

例えばSF。いわゆるオール・タイムベストに必ずといっていいほど出てくる、アーサー・C・クラークの初読はついこの間だ。ブラッドベリも三十過ぎてから読み始めた。

高校生の頃に愛読していたのはジェームス・P・ホーガン。この頃フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」が原作の「ブレードランナー」が公開されて原作本を読んだのだが、全然ピンと来なかった。

本格的にはまりだしたのは、これまた三十過ぎてからだ。ハインラインの「夏への扉」もめちゃめちゃ遅かった。多分四十過ぎて読んだ気がする。ハインラインは中学生の頃に何か読んだのだが、全然面白くなくてそれ以来敬遠していたのだ。

「初めて読むミステリー」とか「年間ベスト」とかで紹介して、読書体験を奨める動きがあるようだが、そもそもボクは気紛れでしか読まないので、この手のガイド本はほとんど目を通さない。

更に言えば、読後感を共有する、という行為にはまったく興味がない。とことん自己完結しているのだ。読書は個人で楽しめる娯楽、という価値観がいつ完成されたのかはさっぱり分からないのだが、「別に人と一緒じゃなくてもイイや」という考え方が根底にあるのは間違いなかろう。

とことん自己チューである。だから、逆に周囲からしつこく奨められると反発して読まなかったりもする。完全にへそ曲がりな性格である。

中高生の頃は確かアガサ・クリスティー、エラリー・クイーン、吉川英治、北杜夫、井上ひさしあたりを中心に読んでいた気がする。このラインナップで、もう既にボクの読書歴が無茶苦茶であることを推測するのは容易だろう。

ちなみに、北杜夫の「どくとるマンボウ」シリーズはほとんど読んでいない。あとは「指輪物語」「ゲド戦記」等の、ファンタジー系を愛読していたような気がする。

特に「指輪物語」は、初読の時は時間を忘れてのめり込んだ。昼頃から読み始めて深夜までには全巻読み切った。夏休み、ひぐらしがなく声と夕焼けと共に深く記憶に残っている。

この思い出がボク的にはすごく大事なので、映画化されたものは見ていない。イメージをぶち壊しにされそうでイヤなのだ。「モモ」も一気読みしたなぁ。こっちは装幀も造本も大好きで、娘にも与えた。あの子は小学生の頃に読んでたんじゃないかなぁ。まぁ、いいや。

ここ数年ではまっていたのはトロツキー、隆慶一郎、キム・ニューマン、グレッグ・イーガン、エンゲルス、川端康成、三島由紀夫、森奈津子かな? 他にも色々読んだような気がするのだが憶えていない。

この中で、それまでとまったく違う面白さを発見したのはトロツキーだった。本当はマジメな革命記録や論文なのだが、ボクにはエンターテイメントにしか思えなかった。なかなかキョーレツな人である。「裏切られた革命」は爆笑必至である。

隆慶一郎もめちゃめちゃ面白かった。未完ながらも「死ぬここと見つけたり」は実にワクワクドキドキさせてくれる。

どこかで書いたような気もするが、ボクは本を買うときまず装幀からだ。見た目が好ましくないと読む気すらしない。内容がどれほど著名で優れていようと、装幀がダメなら間違っても手を出さない。

本を買うというのは、自分の所有物になるということだ。見た目が気にくわないモノを所有するほどボクは寛大ではない。くだらない美意識だが、そもそも買った本を手放すことは基本あり得ないのだ。ずっと所有するのだから満足したものしか買わない。それで中身がハズレというケースもよくあったが。

だから慣れ親しんだ本のカバーが変わると、少なからずショックを受ける。酷くなっていると落ち込む。新潮社の三島由紀夫のシリーズや、ハヤカワ文庫のアガサ・クリスティーのシリーズの、カバーが変わったときはかなりショックだった。

こういう例は枚挙にいとまがない。司馬遼太郎も変わっちゃったしなぁ。愛着があるほど、新しい装幀に拒否感が出る。中身は変わっていないのに。翻訳物の場合は、新訳という形でまた変わるのだと思うが、これまた装幀次第である。とにかく見た目重視なのだ。まぁ、その点、岩波文庫は安心出来る。

こうして手に入れた本は、繰り返し何度も読むことになる。蔵書への愛着というのは、ボクの場合「装幀なり造本なりが綺麗で何度でも面白く読める」という点につきる。本を手に入れるというのは、この辺りも完全に評価の対象になるのでややこしい。

とにかくこのように偏屈な人なので、最近は本を専ら古書店で求めるケースが増えた。経済的な問題も大きいけど。稀覯本には興味がないので(欲しい本はいっぱいあるが)狙いは組版が写植時代の文庫本だ。

写植時代というのには、極めて明解な理由がある。組版が綺麗なのだ。慣れもあるのかもしれない。特に80〜90年代初頭ぐらいに刊行された本は、ボクが一番貪欲に本を読んでいた時代のものでもある。

文字サイズは現行の文庫本と比較すると圧倒的に小さいのだが、読みやすさという点では写植の方に軍配は上がる。少なくとも個人的には、InDesignによる組版よりは圧倒的に可読性は高い。ナゼそうなったかの、技術的・視覚的詳細は他に譲る。

恐らくInDesignで一生懸命組版をしている人の方が、今は圧倒的に多いと思うのだが、そもそも組版というのは本を作る上で完全に分業化された、職人の世界である。

「ソフトがあれば誰でも出来ますよ」などという、生やさしいものではない。もっともこの緩い状況を、効率化の下に黙認(いや奨励だな)しているのは出版社だったり印刷会社だったりするので、余計に個人のスキルに頼らざるを得ないのだ。

だが、そんなに頼もしい人が業界にどれぐらいいるか。個人的な推測だが、圧倒的に少数だと思う。ここも掘り出したらキリがないのでパス。だれかフォローしてくれ!

ちなみに活字の組版はこれまた特殊である。活字工の話をし出すと、これまた奥が深い上に、下手をすると人権問題にまで発展しそうな気がするので、これもやめておく。下っ端から熟練の技を持つ植工になるまでの期間というのは、地獄のような徒弟制度そのものなので。

この辺りに関しては色々文献が残っているので、興味がある人は探してみるのも一興かと思う。ただ、活版組の本はページを触ると、かすかな凸凹があり、これはこれでなかなか風情があるものだ。出来上がるまでの背景さえ知らなければの話ですが。

本の話に戻って。ここで書いたことは、ボクが本に求める美意識の話であり、本を買う際には美意識がより優先されるというコトだ。「新刊出ましたよ。ほれほれ、面白いから買いなはれ」にボクが簡単に引っ掛からないのは、こうした理由があるのだ。

先にも書いたが、これで読み損ねて悔しい思いをしている本が、かなりの量になっていることを白状しておこう。読みたいけど、手に取る気にすらならないというジレンマに陥るのだ。

ここまでくると、変な美意識というのは高いハードルな上に、不利にしか働かない。我ながら悲しい話である。新刊だけに限れば、確かに悲観的な将来しか見通せないかもしれないが、幸いなことに写植時代の本で、まだ未読の本は本当に沢山ある。

当時目を背けた装幀も、今から見れば「まだずっとマシだな」と思わせるような、ある意味悲しい現実もあったりする。だから今から漁りまくっても、死ぬまでに読み切れるかどうかはかなり怪しい。つまり、読書はこれからいくらでも続けられるのだ。

とにかく、めちゃめちゃ気紛れな好奇心にまかせて本を読む人なので、過去の名作なり秀作なりだって、琴線に触れなかったものはかなり多いし、探せばまだまだ面白そうな本は出てくると思う。この辺はかなり楽観視している。

悲観論者なのだか楽観論者なのだか分からないかもしれないが、ボクの中では全く矛盾していない。もちろん皆様にこのような本の読み方を押しつける気は毛頭ない。単なる個人的な嗜好の話なので、読み流していただきたい。

ただ、本を読むという行為そのものは、それほど敷居が高くないとボクは思っている。だって日本語ですよ。いや、洋書で読まないと気が済まない、という人も少なからずいるのはボクも承知しているのだが、まぁ普通は日本語で書かれたものを読むでしょ。

「日本語が理解できない」というのなら話は別だが(そんな変わった日本人はなかなかいないと思うのだが)、普通に楽しめるメディアだと思う。

読むことそのものが苦痛だという人もいるようだが、ボクに言わせれば「お気の毒に」としかならない。自分のペースでゆっくり楽しめる娯楽なのに。と言いつつ、ボクの読書スピードは早いらしい。別に他人と比較する趣味はないので気にはしていない。お仕事の時には役に立っているけど。

逆にゲームがボクはダメだったりする。なんだかゲームそのものにせっつかれているような気がするからだ。それなりの達成感があるのは認めるが、どうもボクにはあわない。まぁ、人それぞれでいいんだとも思うが。

とにかくボクの場合は本である。作家さん達だって色々アイデアをひねり出したり、工夫したりして新しいモノを生み出す努力をしている(していない人ももちろんいるが)幸いボクの知り合いの作家の方々は、この点サービス精神もフロンティア精神も旺盛である。

そういった中で、個人的に残念なのはカバーが酷くて読みたくても読めないケースがあまりに多すぎるという現実である。ここでも例の美意識が頭をもたげるのだ。特に仲のいい作家さんの新刊では地団駄を踏みまくりだ。

さて、今はアーサー・C・クラークにはまりまくっているのだが、機会があればギボンの「ローマ帝国衰亡史」にチャレンジしたい。今まで避けていたのは、巻数が多いのでそれなりの出費が伴うから、という貧乏くさい理由に過ぎないのだが、古書というルートを利用し始めたので、チャンスが訪れるのは時間の問題だろう。

とにかく読書は個人で完結出来る娯楽なので、人見知りなボクにはうってつけのメディアである。人の眼を気にせずゆっくり、じっくり楽しめる。まさか自分がショーバイにするとは思ってもいなかったが、とにかく本はボクの生活の中にしっかり根付いているのだ。

本、ばんざい!


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
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装画・挿絵で口に糊するエカキ。お仕事常時募集中。というか、くれっ!