コロこと川合です。前回の最後の方で、氏(姓)と名字について書きましたが、そこでひとつ書き忘れていたことがあるので、今回はいきなりその話から。
織田信長は「おだのぶなが」、徳川家康は「とくがわいえやす」と読みますが、平信長は「たいらののぶなが」、源家康は「みなもとのいえやす」と読みます。
姓(本姓)と名前の間には「の」が入るのが通例なんです。徳川家康は新田氏の流れをくんでいると称して源家康を名乗りましたが、南北朝時代に活躍した新田義貞(にったよしさだ)も、源義貞(みなもとのよしさだ)です。
平安時代後期くらいに家の名を示すため名字が発生する以前は、だいたいみんな姓+名なので、昔の人は「の」が入る人ばかり。蘇我入鹿とか、平清盛とか。
豊臣って姓なんだよね、とよとみひでよしって呼ばれてない? って思われた方は鋭い。鋭いですが『真田丸』は観られていないんですね……。
『真田丸』では、「とよとみのひでよし」と名乗っていました。なぜか秀吉は慣例的に「とよとみひでよし」と呼ばれることが多く、とよとみのひでよし、というのは耳慣れませんが、小日向文世さん演じる秀吉がとよとみのひでよしと名乗った時、歴史好きは「おお〜」と感心していました。(笑)
さてその『真田丸』、ついに残すところあと二回となりました。幕末話のはずが脱線続きで申し訳ありませんが、年内は脱線のまま行かせてください。今回は、大坂の陣に関わった幸村以外の人について、何人かご紹介。
◎──織田有楽斎(おだ・うらくさい1547年-1622年)
有楽斎は号で、元々の名は長益(ながます)。昨日の放送で幸村に追放されるシーンがありましたが、そこで本人が語っていたとおり、織田信長の弟です。
『真田丸』でもそうですが、胡散臭い怪人物として描かれることが多い有楽斎。本能寺の変が起きた時は織田信忠と二条城にいて、信忠に切腹を勧めたとされ、そのくせ自分は生き延びてるというのもツッコミどころ。真偽は知りませんが。
小牧・長久手の戦いでは織田信雄方(つまり徳川方)についているのに、戦後処理では家康と秀吉の仲介役を務め、後に秀吉から豊臣姓も賜っています。
関ヶ原の戦いでは東軍に付き、武功も挙げていますが、戦後はまた豊臣に出仕。そこからの様子は『真田丸』にも描かれていますが、淀殿を補佐しています。淀殿、姪っ子ですからね。井上順さんの怪演や徳川との内通で、ヒールに見えますが、姪っ子とその息子である秀頼がかわいくて、丸く収めたかったのだと言われれば、まあそのようにも見えます。
千利休の門人で、茶人でもあった有楽斎。大坂城を離れた後は、京都で静かに余生を過ごしたそうです。東京の有楽町に有楽斎の屋敷があって、町名の由来になったと言われていますが、単なる俗説だそうです。……信じてたのに。
◎──明石全登(あかし・てるずみ 生没年不詳)
名前もその読みも諸説ありますが、『真田丸』に従って、全登(てるずみ)で。宇喜多家に仕えていて、その縁で豊臣に臣従。関ヶ原の戦いでは宇喜多秀家の下で西軍に従軍。敗戦で秀家とも散り散りになり、そのまま出奔します。
『真田丸』で描かれているように敬虔なキリシタンで、信仰の自由を求めて、大坂城入りします。まあ元々が豊臣方ですしね。
大坂城五人衆のひとりとして大坂の陣でも活躍しますが、夏の陣の最後、仲間たちが倒れると決死の突破で包囲網をくぐり抜け、そのまま消息不明に。歴史の表舞台から姿を消しました。その結果、日本中に明石全登の子孫を名乗る家があります。真偽は不明です。
◎──後藤又兵衛(ごとう・またべえ 1560年-1615年)
又兵衛は通称で、名は基次(もとつぐ)。大坂城五人衆のひとりです。元々は黒田家の家臣でしたので、『軍師官兵衛』を観られていた方には懐かしくも。
『軍師官兵衛』では黒田長政と兄弟のように育てられていたのに、その長政とそりが合わずに黒田家を離れます。そりが合わず、なんてどころじゃないほど長政には嫌われたようで、長政は「奉公構(ほうこうかまい)」という通達を全国に出して、他家に仕えることを妨害しました。
だから浪人として大坂城に流れてきたんですね。まあ兄弟のように育ったエピソードは脚色で、官兵衛にかわいがられ、息子には疎んじられたというところでしょうか。
『真田丸』では哀川翔さんがまあなんとも粗野な感じで演じられていますが、講談などでは「槍の又兵衛」の異名を取る豪傑として描かれています。
又兵衛の最期は少し悲しいものなので、次回か次々回どのように描かれるのか楽しみです。なお、幸村もそうなんですが又兵衛も生存説があり、あちこちに落ち延びた先とされる場所が残っていたりします。また家康を討ち取ったとの説も講談などで語られていて、堺の南宗寺には家康の墓まであります。
◎──毛利勝永(もうり・かつなが 1578年-1615年)
「幸村」と同じく、「勝永」という名前は当時の資料にないそうで、資料では毛利吉政という名前が残されています。また元は森という名字で、秀吉の指示で毛利になったと言われています。『真田丸』を観ていると、大坂の陣で急に出てきた感じがありますが、割と古くから秀吉に仕えています。
関ヶ原では西軍に付き、勝永は前哨戦などで活躍したのですが、実家の豊前も小倉城を官兵衛(黒田如水)に落とされるなどし、お家は改易。加藤清正や、山内一豊の元を転々としながら保護を受けていましたが、大坂の陣を迎えるにあたって秀頼から請われ、徳川の手伝いに行くと嘘をついて出奔します。
大坂城に入ってからは『真田丸』のとおり、又兵衛たちと共に、大坂五人衆として活躍します。岡本健一さん演ずる勝永、かっこいいですよね。ジャニーズで男闘呼組のメンバーとして活躍されていたと聞けば、私たちの世代には納得。息子は同じくジャニーズで、「Hey! Say! JUMP」のメンバーです。
◎──長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか 1575年-1615年)
四国の雄、長宗我部元親の四男です。長兄が豊臣との戦で亡くなった後、父親の後押しもあり、兄弟を押しのけて若くして家督を相続。家督相続後、父親と共に領国経営にあたります。豊臣との関係は微妙なものと言えば微妙なもので、扱いは低かったとも言われていますが、だからこそなのか関ヶ原では西軍に。
で、西軍に付くも、前方に布陣した毛利の陣は東軍に内通しており、どうやら敗色が濃いということもあり、動けないままに終了。親交のあった徳川重臣の井伊直政に勧められて家康に謝罪するも、なんだかんだで結局改易に。
家臣たちとも散り散りになり、京都で蟄居生活を送っていましたが、大坂の陣を迎えるにあたって、これまた徳川に味方したいんだと嘘をついて京都を脱出。大坂城に入り、長宗我部家の再興を期する旧家臣団も盛親の元に集まります。そのため大坂五人衆の中では、最も大きな勢力を従えています。
『真田丸』では阿南健治さん演じる盛親の濃い顔がなにより印象深いですが、昨夜の放送でもあったように、お家の再興が悲願です。そのためならなんでもします。最期の最期まで命を繋ごうと、敗戦後も自刃しませんでした。
◎──井伊直政(いい・なおまさ 1561年-1602年)
最後に、徳川方からひとり。徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑に数えられ、「井伊の赤備え」として名高い徳川家臣団最強の精鋭部隊を率いる武将です。没年から分かるように、大坂の陣より前に亡くなっていますし『真田丸』には直接は登場しません。
『真田丸』で真田丸が完成し「完封」した回、真田丸を包囲する徳川勢を見て、
高梨内記「あちらにも赤備えがおりますぞ」
真田幸村「あれは井伊直孝(なおたか)の陣。かの井伊直政の次男坊じゃ」
高梨内記「井伊でございますか」
真田幸村「向こうにも、ここにいたるまでの物語があるのだろうな」
高梨内記「一度、聞いてみたいものですなあ」
というやり取りがあったのを、覚えてらっしゃいますでしょうか。
井伊家の「ここにいたるまでの物語」が、来年の大河ドラマ『おんな城主直虎』そのものなんです。あのくだり、実は番宣だったわけですね。(笑)
赤備えは元は武田家が用いていたもので、武田四天王のひとりとして武名高い山県昌景(やまがた・まさかげ)や、その前は飯富虎昌(おぶ・とらまさ)が用いていました。井伊直政が赤備えなのは、武田の旧家臣団を吸収したから。真田の赤備えは、真田家も武田の重臣だった流れからでしょうね。
井伊直政については、来年の大河を観てください。(笑)
次男の井伊直孝は、大坂冬の陣では真田の挑発に乗って真田丸に突っ込み惨敗。夏の陣では活躍して名誉挽回しました。
井伊家は長男の直勝(なおかつ)が継いでいたのですが、出来が今ひとつ悪く、家康は井伊家を二つに分けて、直政の彦根藩は直孝に継がせ直しました。その子孫が桜田門外の変で暗殺された大老、井伊直弼です。
直孝が鷹狩に出た帰り、手招きする猫がいたのでその猫につられて小さな寺に入ると、突然の雷雨。雨宿りしつつ話し込んだことをきっかけに和尚と仲良くなり、その寺は井伊家の菩提寺として立派に改築され、豪徳寺となりました。
猫が招いた縁によるものということで、豪徳寺では招猫堂を立てて猫を祀り、後にその話が、ひこにゃんを誕生させました。ひこねのよいにゃんこ、も。
◎──今回はここまで
次回もたぶん『真田丸』に関係した話になると思います。なんといっても次回、最終回の翌日になるはずですから。まあ、もしかしたら井伊直虎の話かも……再来年の大河ドラマ『西郷どん』の話は今しばらくお待ちください。
【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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